秀吉がこの世を去ったあとに家康は関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣家を滅ぼすために大阪冬の陣を起こします。
いよいよ家康と一触即発状態になった豊臣家は書状などを使って諸国の浪人を集め、その1人が真田幸村だったのです。
真田幸村は警備役の村人を宴会に招いて泥酔させ、幽閉されていた九度山からの脱出に成功します。
そのあとで家の名前もあって真田幸村は軍議に参加することができ、大阪冬の陣において大軍で攻め込む徳川軍から大阪城を守るために真田丸を築くことを決心するのです。
大阪城は北側に淀川、東側に生駒山系それに西側に大阪湾という天然の要害になっています。
真田幸村は手薄となっている大阪城の南側に真田丸を築いて徳川の大軍をおびき寄せ、見事にその作戦は成功するのです。
徳川の先鋒である前田利常に続いて井伊直孝それに松平忠直の軍勢も攻めかかるものの、真田丸へ十分に引き寄せられたところで火縄銃の一斉射撃を浴びるなど1万以上の大損害を受けます。
大阪冬の陣は和睦によって終結した一方、徳川軍の出した条件として真田丸の破却が含まれていたために姿を消したのです。
徳川軍が優勢の戦いだったとは言え、真田丸の存在は彼らにとって脅威だったのかもしれません。
翌年の大阪夏の陣で真田幸村は寡兵(かへい)ながらも果敢に徳川軍に攻め込んでいき、その奮戦ぶりから家康に死を覚悟させたほどだったと現在に伝えられているのです。
最後に兵力で勝った徳川軍に敗れ、大阪城が落城するとともに真田幸村はその生涯に幕を下ろしました。
一方でその活躍は父である昌幸、兄の信之とともに令和の世となっても語り継がれているのです。
ちなみに現在も残っている遺構は真田丸と大阪城を結んでいたとされる[真田の抜け穴]になり、毎年11月の第1日曜に行われている真田祭りの日に解放されます。
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